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浅草 猿若町 -わが故郷 江戸の町-

              浅 草 猿 若 町

           -わが故郷 江戸の町-

                                    桜井 敏浩

昭和四十一年十月一日、住居表示の変更によって、他の多くの伝統ある町名と共に、私の生れ育った浅草猿若町(さるわかちょう)の名は消えてしまった。新町名はただ浅草六丁目という。

私の手許にある戸籍謄本には、『昭和拾七年拾壱月八日東京市浅草区猿若町参丁目壱番地で出生』とある。昭和二十年三月の東京大空襲で米爆撃機の無差別に投下する焼夷弾の炎に追われ、一家で命からがら逃れた、埼玉県飯能でのいわゆる疎開生括と、同じ浅草でも白鬚橋にかなり寄った石浜町(現在は橋場一丁自)での二十五年までの期間を別とすれば、その後再び同じ町内の二丁日に戻り、結婚して家を出るまでの二十年余をここで過している。現在も両親や二人の兄の住む浅草猿若町は、私にとってはまぎれもない故郷なのである。

浅草といえばいうまでもなく観音様―金竜山浅草寺(せんそうじ)の門前町から発展した町で、いま「三社(さんじゃ)さま」(浅草神社)に祭られている浜成・竹成の漁師兄弟が、宮古川(みやこがわ=隅田川)で漁をしていた時に網にかかった、一寸八分の純金の観音像を本尊としているが、その時期は飛鳥朝の推古天皇の頃といわれるから、千四百年も前からの寺町である。平安朝時代にはすでに金堂・五重塔をもって今の地にあり、鎌倉以降代々の将軍職の保護を受けたが、特に徳川家康は浅草寺に寺田を与えて保護したので大いに繁栄した。この浅草が江戸の盛り場の中心として一層繁栄したきっかけは明暦の大火の後の新吉原への遊廓の移転と、老中水野忠邦による天保の改革の際に実施された市中からの芝居小屋の金竜山下への集合策であった。そしてこの措置によって、以降明治初年まで江戸歌舞伎の中心地となって栄えた町が、浅草猿若町なのである。

猿若町は奥州街道の北千住宿への道筋にあり、江戸時代の初期にはかっての田圃も周囲は町屋に変わり、丹波園部藩主小出氏の下屋敷が建てられていた。そして約二百年の後天保十三年(一八四二年)に公収され、市中にあった芝居小屋の強制移転先としてあてられたのである。

時の老中首座水野越前守忠邦は、衰退する幕府を建て直すため多くの反対・不満を抑えて一連の政治改革を実行した。その一つに奢侈取締・風俗粛正を主眼とする庶民生活の統制があり、人気を博していた江戸歌舞伎の芝居小屋の移転も、その一施策として断行された。当時の芝居小屋は江戸城に近い現在の中央区に中村座、市村座そして河原崎座などがあったが、天保十二年の中村、市村座の火災焼失を契機に、市中で風俗上好ましからぬ影響力をもつこれら芝居小屋を町外れに近い土地へ移転させることが決められたのである。因みに、その時老中水野忠邦はこの機会に市中の芝居小屋の全廃あるいは郊外への移転を意図して、諮問書を町奉行遠山左衛門尉に下したが、巷問“江戸っ子奉行、遠山の金さん”と伝承されている如く、芝居関係者に好意的な上申書を提出して、現在地での存続を許し、移転の要なき事を主張した。結局遠山の移転反対論は無視されたが、仮に移転させる場合は、「青山、四谷の如き山手は下町と違い質素の風俗」があるとの意見は取り入れられ、移転先は浅草寺の東北に当る小出伊勢守の下屋敷の辺とされたのである。

猿若町の名は、江戸芝居の始祖中村勘三郎の創作した猿楽―歌舞伎狂言に由来している。勘三郎は姓も猿若と改め、寛永元年に現在の中央区に猿若座を設けた。猿若座は二代目勘三郎が本姓に復帰したことによって中村座と改称したが、かかるいきさつから芝居の町にふさわしい町名として決められた。決定は天保十三年四月で、町奉行遠山左衛門尉から申し渡されている。

 爾来浅草猿若町は、中村座、市村座、河原崎座(後の守田座)のいわゆる猿若三座を中心に、人形繰り芝居の薩摩座、結城座、そして芝居見物客のための多くの料理茶屋や役者の住居などが軒を連ね、一種独得の雰囲気を醸し出しながら、明治初年まで江戸の芝居興業街として繁栄を極めたのである。芝居小屋移設という目的をもって、しかも土地造成を行った上で町造りが行われた猿若町は、江戸時代からの町としては珍らしく区画が比較的整然としていた。関東大震災後の市区改良で変った部分もあるが、江戸時代の町域は、ほば完全にたどることができる。安藤広重や歌川芳藤による江戸名所図絵や古地図を見れば、当時の町並みが彷彿としてくる。喜永年間の「猿若街細鑑」という地図によれば、わが家は市村座の裏の茶屋の並ぶ一角だったようだ。

猿若三座以外の歌舞伎興業が禁じられた、江戸時代のこの町の芝居小屋による盛況も、やがて徳川幕府の倒壊により、劇場集中・統制策の基盤が失われると、解体の道をたどることになる。すでに幕府の統制のゆるみ始めた慶応二年に、二つの人形芝居は移転していたが、明治五年に守田座が、十七年に猿若座(旧中村座)が、そして残った市村座も同二十五年に町内より姿を消し、浅草猿若町は明治中期以降芝居興業街としての性格を失っていったのである。

そして、それ以降猿若町は急速に商工業者の町に変貌していく。大正十年前後には、町の人々の大部分は草履、下駄の花緒に関係する問屋、材料店、下職人で、芝居に縁りのある住人は芝居小道具の藤浪(ふじなみ)小道具店、長唄の杵屋(きねや)孝次郎(松永和楓)、そして沢村国大郎、沢村貞子、加東大介の三兄弟の一家ぐらいだったという。その後大正十二年九月一日の関東大震災、昭和二十年三月十日の東京大空裏による二度の大火で、全町焼失の憂き目にあいながら、その都度復興したが、和奘履物の製造、集散を生業としてきた猿若町の人々も、国民の生括の変化にともない、戦後は隣接の花川戸などと共に靴・皮革やサンダル類のメーカー・流通業者の町となり、下町の匂いの深った木造の平屋かせいぜい二階建の商家造りの町並みは、今ではほとんどビル街に変わってしまっている。

しかしながら、町に住む人々のうちかなりは、依然として猿若町に数十年来在住する人達であり、互いに親の代からの顔見知りで、下町の人情が薄れたといわれる昨今でも、まだまだ近所付合いも濃く、未だに旧町名に誇りをもち、その名を冠する町会の活動も活発である。

浅草には多くの年中行事がある。主なものだけでも、五月十七日、十八日の近くに行われる花戸三大祭りの一つ三社祭、五月の晦日と六月一日およぴ六月晦日と七月一日に開かれる大規模な植木市(お富士さん)、七月九日、十日のほほづき市(四万六千日)、七月下旬の隅田川花火大会、そして寒くなってきての十一月の酉(とり)の市、十二月十七日から十九日にかけての羽子板市(歳の市)などがあり、季節の移りを実感させる風物詩がなお連綿として伝えられている。

私の妻も浅草花川戸育ちであり、二人の子供も、出生地は浅草観音裏の浅草寺病院という、現住所こそ浅草から少し離れているが、心情的には浅草っ子の一家である私の家族は、今でも析ある毎に浅草へ帰っている。




 参考文献  『浅草猿若町』  新美 武編   昭和四八年刊(自家出版)
       『
隅田川の今昔』 鹿児島徳治著  昭和四七年刊(有峰書店)


【『協友会報』第21号 海外経済協力基金(OECF-現JICA)協友会 1985年3月】



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           猿若三座の紋所 (『浅草猿若町』新美 武著 より)


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by andes-amazon | 2020-10-12 23:33 | 非ラテンアメリカ